2013/06/27

廃用身/久坂部羊

「廃用身」は、老人介護やマヒ・障害をテーマとした医療サスペンスフィクションです。
以下はそのレビュー/感想ですが、この本の中で実施される架空の医療行為が少々グロテスクなので、苦手な方はご注意下さい。

※作品内容のネタバレはありません。


「廃用身」とは理学療法(リハビリなど)の業界用語で、
  1. 麻痺して動かすことができない
  2. かつ、回復する見込みがない
状態にある身体の部位を意味するそうです。

そして本書の中心人物である漆原という架空の医師が考案したのは、廃用身を切り落としてしまうという医療行為なのです。

!フィクションです!

先ほどからフィクションとか架空とか強調しているのは、ネットでレビュー等を探していたら、本書の前半部分をノンフィクションだと勘違いして読まれた方が結構いたからです。
医師だった作者(漆原氏ではなく久坂部氏)の筆致は勘違いされるほど真に迫っており、或いは前半部分だけ切り取れば、時折医師が出版する老後健康系の新書のような印象にまとまります。

が、やっぱり手足を切り落とすという行為を積極的・肯定的に行う描写をノンフィクションだという思い込みで読むと、かなり不快感を伴うと思いますので、フィクションだとことさら強調しておきます。ただ、その不快感・暗い感情は作者の狙いの一部とも思われますが。
僕は分かった上で読んだので後のドンデン返しを期待して我慢できましたが、やはり一貫して肯定的な態度というのは見ていて不安が募りますね。

本書は介護の問題を具体的かつ現場のレベルで、よだれやら糞便やら汚物やらといった決して綺麗ではない表現で描写しており、読者に問題の認識を強いてきます。それも勘違いされた原因でしょうね。

切断行為の受け止め方

漆原医師が「Aケア」と名付けた廃用身を切り落とす行為について、複数の視点から描くことで『こんなにも人によって捉え方が違うのか』というギャップを見せてくれます。
それはもちろん、『あなたはどう思う?』という問いかけなのです。

三人称視点(世間・マスコミ)

マスコミはこの行為をセンセーショナルに取り上げ、漆原医師のクリニックを『切断クリニック』と評して事件扱いします。
これは、そりゃそうだという感じがします。仮に非常に効果の高い療法であったとしても、手足を切り取るという行為そのものは日常の観念から大きくかけ離れています。
現実世界でそういう行為が行われたとしても、やっぱり世間は同じ反応を見せるでしょう。

二人称視点(介護者・医療者)

一転、切断手術を受けた本人の間近に居る人は「Aケア」を好意的に捉えます。これには非常に明快な理由があって、それは体重が軽くなる=介護がしやすくなるから、です。
そもそも漆原医師が切断という行為を思いついたのも、被介護者の体重のせいで起こる介護担当者の慢性的な腰痛などの負担を軽減できないかという発想からでした。

また、麻痺した手足はだらりと脱力した状態になるとは限りません。腱と筋肉の働きでカマキリのように縮こまり(拘縮)、伸ばそうとしてもぐっと抵抗するようなケースも多くあります。そうかと思うと本人の意思に反して暴れたりします。
この手足が、例えば着替えなどの日常動作の上で非常に、言葉は悪いですが、邪魔になっています。邪魔だから取ってしまえというのは乱暴に聞こえますが、無ければ楽な局面が多いのは事実なのです。

作中で漆原医師は、『親から貰った身体を切り落とすなんてとんでもない、などの観念的な理由でAケアに反対する人は、介護の現場の過酷さを知らない人だ』といった主張をしています。これは現実においてもかなり当てはまると言えそうです。
(だからと言って僕が現実にAケアをしようと言ってるわけじゃないですよ)

一人称視点(当事者・本人)

介護する側にとって便利だから切り落とすというとかなりインモラルな感じですが、介護される側が望むから切り落とすのであれば多少マシな感じがします。作中でも漆原医師は当人の同意書をとる形で意思を尊重しています。
(この同意書自体は、裁判の防止を企図したような細かい文言が並ぶものではなく、非常に簡素で好感が持てるのですが……)

当事者がAケアを受けることを決心する理由の一つとして挙げられているのが、廃用身に対する憎しみに似た感情です。

「脚が痛くてたまらんのです。あちこちで診てもろうたが、この脚があるかぎり治らんと言われました。そんなら脚を切り落としたら痛みは治るんやろか。もう脚なんか惜しゅうないんやが。切って痛みが消えるんなら、ほんまに切ってほしい……。けど、死ぬまで治らんのでしょうな」

――『廃用身』P58~59

ある患者さんの言葉として収録されているものを引用してみました。
これと殆ど同じ感情を、僕も抱いた覚えがあります。痛くて痛くて、もういっそのこと切ってくれと思ったのは一度や二度ではありません。僕でさえ、(痛いばかりではなく一応は動いてもくれる)僕でさえそう思うのですから、麻痺してしまって完全に動かない手足を持つ方は恨み骨髄でしょう。

というわけで、Aケアは概ね好意的に受け入れられました。最初の事例の一人がとても元気になったのを周囲が見て、というのも大きいですが。さて、仮に現実にやったらどうなることやら。
「切ってくれ」と思ったことがある人数だけでいえば、現実に相当な数に上ると思います。

もう一つの視点/同意社会

本書の冒頭でも、老人介護の難しさの中に『老人は気分が変わりやすい』と記されています。
ここまでに挙げた三つの視座視点は、漏れなく色々な角度から見たようでいて時間経過というファクターが抜けています。「切って欲しいと思ったことがある」と「切って欲しいと思っている」では大違いです。

作中にも、切断手術後しばらくは調子が良く手術を喜んでいたものの、年単位の期間が経過した後で激しく気持ちが沈み切断を後悔する事例が挙げられています。言うまでもなく後戻りはできない手術ですから、そういうこともあるでしょうとしか言いようがありません。
人間、自分の気持ちとは言っても今この瞬間のものしか分からないし、尊重もできないのです。

新しいものであればあるほど、それが人体に及ぼす影響は「分からない」としか言えません。未来のことまで見通し、全ての情報を並べて判断できる視点だなんて、それは神視点です。存在しないですよね。

諸々のネットサービスであったり、裁判沙汰になろうとしている鳥人間コンテストの件であったり、無数の局面で同意書を書かされる世の中になってきています。
ですが僕達は神ならぬ人間で、不確かな情報を元に暫時的な同意しかできない生き物です。同意で人を縛り過ぎる世の中が嫌だなぁ、と本書に関係ないことを連想しながら読みました。

最後に

世の中の殆どの人は、介護や障害の問題を三人称視点で眺めているものと思います。そういう人に対して「いずれあなたもそうなるんですよ!他人事じゃないんですよ!」と呼びかけることは、確かに主張の内容は間違っていないんですが、あまり聞き届けては貰えないようです。
それもその筈、健康な方にとっても一人称の問題があり、今この瞬間そちらに気持ちが惹かれているのですから。

問題の当事者になった時にしか真剣に考えられない人を責めてはいけないなと改めて思いました。僕はたまたま人より早く問題に遭遇しただけで、偉そうな面をできる要素は何もないのですし。

でも、もし望むなら問題を疑似体験して自分の心の中に取り込むことはできるわけです。そんなあなたに、廃用身。いーいクスリです(太田胃酸)。

 

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