2013/01/10

書籍感想)盤上の夜/宮内悠介

 囲碁、チェッカー、麻雀、シャトランジ、将棋、そして囲碁。
 盤上遊戯とそのプレイヤーを取り巻く出来事を、「わたし」というジャーナリストがインタビューしながら巡る、現実から離れてゆく旅のような一冊です。最後はちゃんと現実に帰してくれるのでご安心下さい。

 怪奇譚。僕はそうカテゴライズしました。不思議な、異世界の、神話的な出来事が中心にある一冊です。少なくとも、現実を生きる僕等にとっては。

 上で挙げた盤上遊戯はどれも、対局相手と順番という要素がありますから、全て自分の思い通りには進められません。
 碁を例にすると、自分の順番では何処に石を置くか悩みます。こっちに打ったら相手はこう、あっちに打ったら相手はこう…いやこうかも知れないと、自分の選択を起点に無数の変化が生まれます。生まれてしまいます。

 その先の先まで予測しきることは、常人には出来ません。しかしそれをしようとする人達がいます。

 その人達ってもう、現実の向こう側、数理と論理の果て、例えば宗教家やアーティストが夢想するようなアッチ側に、足踏み入れて突き進んじゃってますよね。
 難しい話に感じるかも知れませんが、そういうプレイヤーではないルポライター「わたし」の視点を通しているので、大丈夫だと思います。ちょっとだけ『アッチ』の世界を覗き込もうとするような、そんな本なのです。

以下、短編を一つづつ紹介しますが、ネタバレはありません。

「盤上の夜」

 タイトルにもなっている、手足を無くした女流棋士(囲碁)の話。
 随分と観念的というか、頭の中の幻想を美しく書いてあるものですから、すわ純文学かと身構えましたが、大丈夫。これは言ってみれば旅立ちの話で、ちゃんと最後の「原爆の局」で現実に帰ってきますので。

 由宇はうっすらと目を開け、眠ったような顔つきをしていたという。
 由宇は対局が煮詰まった頃合いに、ふとこのような表情をする癖があった。後年、このことをインタビューで問われ、「氷壁を登っているのです」と回答した

(中略)

「由宇は棋理の最果ての天空を目指し、見えないハーケンを打ち、架空のホールドを握りつづけてきました。

P17~18より引用

 綺麗な比喩なんだけど、なんだか良く分かんない。

 由宇はゆっくりと一語一語を選びながらわたしの問いに応えた。「日々の暮らしを生きる人たちは、そんなものはわたしの幻想だと言うでしょう。それはわたしの妄想であって、わたしのような存在は、まるで海抜ゼロメートル付近のアスファルト上で、登山具に身を包む道化なのだと。彼らの言うことも、わからないでもない。でもね」

(中略)

「それでも、二人の棋士は、氷壁で出会うんだよ」

P39より引用

 そう、僕や「わたし」は『日々の暮らしを生きる人たち』。その人達とは違う世界なんだよ、と断言している。
 読んだ時はどう受け止めていいもんか意味不明でしたが、終わりまで読むとちゃんと腑に落ちるようになってました。ううむ。


「人間の王」

 実在のチェッカーチャンピオンを題材にした一篇。
 どこからがフィクションか分かりませんが、とにかく凄いチェッカープレイヤーであるマリオン・ティンズリーという人間がいたのは事実。そして彼の死に際に、チェッカーというゲームが解かれてしまったことも。

 ルール上偶然の要素はなく、ゲーム理論では将棋や囲碁と同じく二人零和有限確定完全情報ゲームに分類される。2007年にアルバータ大学のシェッファーを中心とした研究グループによって、プレイヤー双方が最善を尽くした場合、必ず引き分けに至ることが証明された。


『人間でありながらあんなに強かった、しかも数学者でもあったティンズリーからすれば、チェッカーが解かれることは予想できていたのではないか?それなのに何故戦い続けたのか?』

 そんな問いかけが提起されます。“彼”の回答は、ネタバレなのでもちろん書きませんが、でもそれってよくよく考えれば問題提起自体がおかしいとも思えるんですよね。
  • 『チェッカーは必ず引き分けになる。これは論理的に明らかなのに、何故戦うのか?』
  • 『人間はいずれ必ず死ぬ。これは論理的に明らかなのに、何故生きるのか?』
同じ問いじゃありませんか?だったら考える意味なんて無いですやん。僕はドヤ顔でそう言った。


「清められた卓」

 麻雀。どんなに強くても運で負けるし、どんなに弱くても運で勝つという点で、囲碁やチェッカーとはかなり異なるゲームです。

 しかし、強いか弱いかは別として確率は計算できます。
 確率的に不利な切り方をしているのに不自然に勝ち続ければ、当然いかさまを疑われます。しかし、防止の為にいかさまの要素を全て除外したのに、それでも勝ち続ける…魔術でも使っているとしか思えない。そんなプレイヤーが現れます。

 この異常なプレイヤーのせいで、周囲も普段のプレイスタイルが揺らいでしまいます。

 三枚ある北をわざわざ一枚切って、その後にまた回収するとはどういうことか。
 ――また、何かがはじまりつつある。

(中略)

 優澄は当山の切った四筒をチーして、四筒を切った。思わず、新沢はつぶやいていた。
「……もう麻雀じゃねえよ」
 そのときだった。
 四筒を切ったばかりの当山が、優澄の四筒に反射的に「ポン!」と叫んだ。なかば無意識からの行動だった。叫んだはいいものの、当山自身、しばらく動けなくなってしまった。
「何をやっているんだ……」

P129~130より引用

 最後に、謎解きはなされます。しかしそれは、一応筋は通っていて説明はつくものの、やはり一般人である「わたし」には受け入れがたい『アッチ』側の論理として横たわるのです。


「象を飛ばした王子」

 この短編にだけは、インタビュアーである「わたし」が登場しません。過去の話だからです。遠い過去…紀元前5世紀頃となりましょうか。舞台は古代インド。主人公はブッダの息子、ラーフラ。

 彼は小国の王子です。親父は現実逃避してどっか行っちゃいました(怒られそうな表現)。周囲は強国ばかりで、いつ攻め滅ぼされるか分かったもんじゃありません。

 彼もまた苦しみばかりの現実から目を背ける為なのか、軍議に使う駒を用いた盤上遊戯を思いつきます。
 まだチェスも将棋も、それらの原型と言われるチャトランガすら無い頃です。というか、ラーフラ君の思いつきがそれになって、現代まで続くことに(このお話では)なってゆくのですが。

 しかしこの思いつき、なかなか周りに理解してもらえません。そういうゲームが存在しない時代のことですから。
 自分にとっては明白な、しかし他者にとっては複雑怪奇な論理を、共有できない孤独は『アッチ』を覗くプレイヤーにはつきものなのでしょう、多分。
 長いこと経って、やっと理解者を得ます。

「……法則に従って、駒を交互に動かす。最後に王を取った側が勝ち。そうなのだな」
「そうです!」ラーフラの目が輝いた。「そうなんです! たったこれだけのことを、これまでただの一人も、理解してはくれなかったのです!」

P184より引用

 ラーフラ君、喜びます。同じ論理を共有し合った喜びです。
 現代のゲームにおいても、実力伯仲の勝負の後には喜びが残るものです。同じ種類のものではないでしょうか。

 しかしラーフラ君にはもう一つの問題を突きつけられます。『だから何?』ということです。このゲーム、ただの仮想に意味を見出す人もまた居なかったのです。
 何のためにゲームをするのか。現実においてどんな意味を持つのか。ラーフラ君の答えが気になる方は、どうぞお読みになって下さい。

※別に仏教法話じゃないので、あくまで小説として楽しむべきと思います。


「千年の虚空」

 先に挙げたチェッカーというゲームは、ある意味で終わっています。完全解が出てしまったので。
 将棋はまだです。拡散性があるので中々難しいでしょうね。しかしいつか解かれてしまったら、それは『ゲームを終わらせるゲーム』なのでしょうか。
 そして、『争いというゲームを終わらせるゲーム』を現実で行おうとした男の話、です。

 一郎の言った文句がある。

(中略)

 原爆製造に携わったオッペンハイマーからの孫引きだった。
「我は死なり」と一郎は言ったのである。「――世界の破壊者なり」

P233より引用

 彼は人々の歴史認識を改めることで『暴力の終焉』が訪れるのだと触れ回りました。彼がやったのはこんなことです。

 歴史学を文系の学者ではなく、理系の学者に委ねなければならない。

(中略)

 すべての文献をフラットに扱う。その上で、史料の全文章を一文ごとにノード化してネットワークを築き、ノード間の依存関係をすべて網羅し、文章単位で信頼性を評価する。

(中略)

 すべての文献を量子コンピュータにかけ、重なり合った無数の過去を生み出す。そこに量子蜜蜂と名づけられた探索エンジンを走らせ、決められた評価基準を満たす歴史を選び出す。
 こうして、一本の歴史を生み出そうというのである。

P221より引用

 チェッカーやチェスを解くように、歴史を解き明かそうというアプローチ。面白いですね。
 しかし彼の目論見は、上に引用した額面通りではありません。もっと破壊的なものでした。何を目論んでいたかは、伏せておくことにしましょう。

 盤上と現実は違うんだ、というエピソードなのでしょう。
 盤の上には、目に見えるかどうかはともかく、たった一つの回答がある。少なくともそう思われていて、誰もがそれを追い求める。だからそれが見つかれば戦う意味もなくなる。
 現実にはたった一つの答えはなくて、人それぞれバラバラな…おっと、当たり前な一般論のつもりがネタバレに踏み込んでしまうところでした。危ない危ない。


「原爆の局」

 全てを締めくくる一篇。「盤上の夜」の続き的な話で、終わり的な話です。

 広島に原爆が落ちた1945年8月6日、本因坊戦という囲碁のタイトルマッチが行われていました。場所は広島市外五日市吉見園。原爆落下地点から10km離れてるかどうかって距離ですよ。ちなみに実話ですからコレ

 爆風で碁石やらが吹っ飛んだ後、当然のように並べなおして対局を続けたっていうんですから、もう、ねえ。

 「盤上の夜」に登場した手足のない棋士は、原爆の局の棋譜(対戦記録)を持って旅に出ます。行き先はニューメキシコ。
 何をしに行ったか分からないまま、彼女との真剣勝負を望む棋士と「わたし」は追跡を始め、そして追いついた先でもちろん対局。その勝負の果てに聞く彼女の答え。




 なんでそこまでして打つのか、とか。
 現実との距離感とか。関係とか。
 ゲームと現実を対比して、陰影をなぞってゆくようなお話でした。
 凄く大切なことをはっきり書いているのに、説教臭くなくて、押し付けがましくなくて、そういう意味でも良い本だったと、思います。

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