2012/04/10

書籍感想)ウェブらしさを考える本/大向一輝・池谷瑠絵著

本屋さんでお金を出して買う事もできますが、ウェブ上で全文が無料公開されているので、軽い気持ちで読んでみました。ウェブの仕組みやサービスの歴史を(かなり駆け足に)紹介しながら、「ウェブらしさとは何か」を考えるという1冊です。
ボリュームもそれほどではありませんし、時々でてくる専門的な内容も分かりやすく書かれているので、肩肘張らずに読めると思います。

先日読んだ「閉じこもるインターネット」という本も、似たテーマを扱っていました(→拙レビュー)が、捉え方は全く違っています。
「ウェブらしさを考える本」はフェイスブックやグーグルに対して概ね肯定的・好意的なのに対し「閉じこもるインターネット」は批判的・懐疑的な立場を取っています。

僕はというと、「閉じこもる〜」の方を先に読んだ事もあってか、「ウェブらしさ〜」の議論を素直に受け取る事ができませんでした。

以下に続くレビューは本書に対し批判的な内容です。
ただ誤解して欲しくない点があります。僕は、本書を著した方々が不見識だとか言うつもりは無いのです(どちらかといえば僕の方に誤解や知識不足があるはず)。彼らと僕がウェブについて食い違った言及をするのは、どちらかが間違っているからではなく、そもそも同じウェブを見ているわけではないから。それが理由だと考えています。

と、言い訳が完了しましたので言いたい放題言わせて頂きましょう。下に行くほど毒が強くなっていきますのでご注意下さい。


ウェブはオープンか?

本書が掲げる「ウェブらしさとは何か」という設問に対する結論5要素の内、1つめは「オープンさ」とあります。

ウェブらしさの根幹をなすものは、オープンさという性質です。ではオープンさとは何か、というとなかなか定義しがたいのですが、第三章で見てきたように、ウェブの産みの親であるティム・バーナーズ=リーは、情報を隠すことができないようなしくみを考えました。

ー「ウェブらしさを考える本」より

ウェブにはオープンな一面もあるでしょう。それは否定しません。
が、本書でも大きく紙幅を割くようにウェブの世界で幅を利かせているフェイスブックやグーグルがオープンかというと、僕にはそう感じられません。

グーグル八分騒動を覚えている方は少なくないと思います。「ある特定のページ/サイトが、グーグルの検索結果から意図的に除外されているのではないか」という疑惑が引き起こした騒動です。
実際に検索結果の操作が行われていたかは不明です。が、技術的には間違いなく出来る事です。
そして検索で見つからないページというのは、もはや存在しないも同然です。つまり検索サイトにとっては、情報を隠すことも不可能ではないのです。

検索で見つからなくてもSNSを通じて人から教えて貰える、だから検索サイトにとっても情報は隠せない、という指摘もあるかも知れません。
しかしフェイスブックだって、ユーザからは分からない基準でニュースフィードの情報を取捨選択していますから、やっぱり隠せない仕組みとは言い難いでしょう(この辺り詳しく知りたい方は「閉じこもる〜」を参照下さい)。

Wikipediaについて紹介するくだりにこんな記述があります。

ウィキペディアがおもしろいのは、運営者側が権限を与えて編集合戦を調停・管理する人を決めるのではなく、民主的な手続きが事細かく決められている点です。

ー「ウェブらしさを考える本」より

本書ではそういう言及をしていませんが、これこそがオープンという事です。
民主的かどうかは関係ありません、公開された手続きに則る=オープンです。なんの権限もない1ユーザにも、手続きの順序や判断の基準が見えるという状態がオープンさ(情報を隠せない)を支えています。

フェイスブックやグーグルといった、非公開の手続きによって情報をフィルタリングするサービスが現在進行形で勢いを増しているウェブの世界を「オープンだよね!」と評する事は楽観的に過ぎると感じます。

ウェブは未完成だ、けれど

ウェブは常に拡がり続け更新され続けています。完成なんて言える日はきっと来ないでしょう。そういう意味で以下の指摘は非常に頷けます。

ベストエフォート(完璧でなくとも最大限の努力をする)

ウェブの価値感を最もよく表現しているのがこの「ベストエフォート」だと思います。新しいものをつくるときには、それが本当によいかどうか、究極のところ誰にもわかりません。まずはやってみる、そして反応を見て改良するというフィードバックの繰り返しこそが創造の源泉だとも言えるでしょう。

ー「ウェブらしさを考える本」より

関連して、アジャイル開発なども紹介しています。
とにかくやってみよう、という姿勢は重要ですし必要です。やりながら直していく体制がユーザに利益をもたらす実例も沢山あります。

しかしそれをウェブらしさと言うならば、同時にリスクも指摘して頂きたい。
「とにかくやってみる」で作られたサービスやアプリが跳梁跋扈するウェブの世界は、オブラートに包んでも玉石混淆、包まなければ幾つかの宝石が埋もれたゴミの山と言った所でしょうか。
重大なセキュリティリスクを含んでいたり(一時期はXSS脆弱性なんてそこら中で見つかりましたね)ありえないプライバシー漏洩があったり(カレログとかアプログとか)と、ユーザは危険に晒されています。

そうした問題は指摘を受ければ対処される例が多いようですし、「指摘されなきゃ直さないのかよ」という愚痴はここでは問題にしません。初めから完璧なプロダクトを求めるのは時代遅れだというのも承知しているつもりです。

しかし、それにしたって、これはやっぱり楽天的過ぎやしませんか。

このような「ウェブらしさ」を実践していれば、長期的に見て素晴らしいものができる─それが「ウェブらしさ」の最大の価値であり、現在のところそれ以上のやり方はないのではないか、と人類が考える方法論であるように思われます。というのも、実はこれは現在の「科学」の方法そのものであるからです。

ー「ウェブらしさを考える本」より

…。
無理がある。
  • 科学におけるベストエフォートは、最低限すべき調査や実験と、それを論文に落とし込む推敲と時間が要求される。
  • ウェブにおけるベストエフォートのハードルはもっと低く、そしてなお低くなる傾向にある。要するに「ちょっとした思いつき」を数時間でローンチできてしまう。速さでいうとアメロードとか速かったですね。
  • 科学における論文査読を行うのは科学者であり、必要な資源は時間と情熱だけ。
  • ウェブでチェックを行うのは一般ユーザであり、個人情報やら何やらを事前の同意も自衛の準備もなくかすめ取られ得る。
ウェブの進化の先に、とても便利な新しい世界が待っている事は僕も疑いません。
が、それを「素晴らしい」ものにしたいなら、事業者に課すべき責任やら、ユーザが学ぶべき自衛策とか、色々必要なものが伴うんじゃないでしょうか。

見解の相違

他にも読んでいて「えっ」と躓く細かな見解の相違は沢山あって、多分この本を著した方々は「りあじゅう」なんだろうなぁとマイナス視点で眺めてしまいます。

人にとってやっぱり反応は気持ちいいものです。
気持ちよさを重視すると、自分の言いたいことを言う、という段階から、相手の反応をもらいやすいことを言うことへすり替わっていきます。それをみんなが同じように振る舞うようになると、どんどんと大喜利のような状態になっていくのは避けられません。
そこであるときに疲れてこの場所を脱出する

ー「ウェブらしさを考える本」より

言っている事は、個々には共感できるんですよ。
僕だって誰かから反応を貰うのは気持ちいいです。自分が言いたい事ばかりではなく、誰かの反応を狙って書く事もあります。
一方で、「相手の反応をもらいやすいことを言う」ばかりだと疲れてしまうのも良く分かります。言いたい事を言いたいという欲求もあります。

上に挙げた2つの相反する欲求は、著者の方も僕も同じように持っている筈なのに、結論は全然違います。
著者の方はSNSを乗り換え続けてゆくんですって。へー、大変ですね。


また、ウェブでの情報収集について、「かつては検索エンジンが起点だったが、最近はSNS が起点に変わってきている」ともあります。えっ。
僕は未だに検索エンジンが情報収集の起点なんですがそれは時代遅れでしたか。どんだけ幅広い友達がいればSNSを起点にできるんですか。


他にも色々ありますがちょっと量が多いので割愛しまして、次の1点を結びとします。

透明性と行動規範

フェイスブックは実名登録を義務とするなど、リアルの世界をそのままウェブにアップしようとしています。これは彼らの一貫したポリシーのようです。しかしそこにもリスクは伴います。

実名でリアルな世界と直接接続されると、小さなトラブルを含めていろいろな問題が起こり得ることは容易に想像できます。
(中略)
自分では何も発信していなくても、他人が発信する情報によって埋められていき、ウェブ上に自分の情報がつくられていくことになります。

常識的には、これは過剰な透明性ではないか、と思う人もたくさんいると思います。

ー「ウェブらしさを考える本」より

はい。僕はそれを過剰な透明性だと思います。こうした意見がある事を認識した上で、こう続きます。

一方で、行動規範として、最初から不透明なことをしなければいいという考え方も徐々に広まっています。これは人によっては受け入れ難い価値観ではありますが、透明性が高いほうが行動しやすい状況になっているのもまた確かです。

行動規範についても、今が過渡期であり、どこかでフェイスブックの倫理が確立されてくるのではないかと予想されます。

そしてこれはいわばウェブの本質そのものであり、人々が手持ちの情報をウェブ上に出し、共有する、その情報の対象が人々の日常的な行動にまで及ぶようになったと考えることもできます。

ー「ウェブらしさを考える本」より

…。 えっ?

えっ?(真顔)

どこで? いつの間にそんな事になっていたの?
それ、あなたがそう言っているだけじゃないの?

これについては同意・共感できる部分が殆ど無くって、議論を噛み合わせる事すら難しいのですが…。
苦労して言葉をひねり出すとしたら、「人間の多様性を認めて下さい、りあじゅう様」といった感じでしょうか。


これは想像でしかありませんが、著者の方がSNSで繋がっている友達はきっと、活発で前向きで日常生活が充実していてユーモアと思いやりがあって、つまりは透明になっても何も困らないような、そういう人格で振舞っているのでしょう。
フェイスブックのタイムラインに「いいひとを演じろ」圧力を感じるのは僕だけではないし、その圧力に屈している人達はあんまり透明になっちゃ困るんですよ。でも「透明になっちゃ困るよ」という発言はフェイスブック上ではしづらい。そういう空気があるから、みんな「透明にすればいいのに」と言っているように見える、どこにでもある同調圧力の例ではないですか。



というわけで、僕の認識の多くは本書のそれよりも悲観的で、対立する点が非常に多かったというのが感想です。少し前に流行った批判に則って「この本はフェイスブックのステマ!」と言いたくなるくらい、根拠不明にフェイスブックを持ち上げています。

僕としては「閉じこもるインターネット」の方をお勧めしたい。特に、僕が何をそんなに心配しているのかピンと来ないという方は、危機意識を呼び覚ました方が良いんじゃないかと考えます。

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