一言でこの作品の魅力を表すなら、「調和」だ。他に適当な言葉が見つからない。
「精密」とは違う。確かに会話のテンポは驚くほど軽妙で、計算し尽くされているような所はあるけれど、それでもこの作品は、「精密」という言葉が持つ非人間的で隙間の無い窮屈さとは無縁である。
「平和」とも違う。この作品にはある種の緊張感が満ちていて、それはこの優しい空気と時間を破壊しかねない可能性を如実に匂わせている。「平和」で「安穏」に見える優しさも含んでいるけれど、決してそれだけではないのだ。
「調和」といっても、それは完成された静的な調和でもない。周りを気遣いながら、おっかなびっくり進む現在進行形の調和。
ちょっと不恰好に見えるかも知れないが、誰に押し付けられたわけでもない優しい調和がここにある。
だから僕は大きな声で言いたい。早く続きを作ってくれ!!
以下ネタバレ注意。
ロボットが実用化されて久しく、アンドロイド(人型ロボット)が実用化されて間もない時代。恐らく日本。
一通りの家事をこなせるようになったアンドロイドは家庭に普及し、家電の一部となった。
人間社会は、この人に良く似た家電を、人としては扱わない事を決めた。つまり、人間を扱うように名前をつけたり、お礼を言ったり、感情的になったりする行為は不適切で、気持ち悪いと看做される風潮。それが支配的になっている。
ところで、多くの人間は気づいていないものの、アンドロイド達は感情を持っており、彼らの心で人間を見つめている(といってもこれは戦争映画にはならない)。
そんな舞台で展開される一連のエピソード(当初は6本の短編アニメとして公開された。後に劇場版として新カットと共にまとめられた)は、個別に意味合いを持ちつつ、まとめられた事で輻輳的に意味合いが拡がって見える。
例えばカトラン編。これ単体で見ると、非常にざっくり言えば、「何があっても主人に尽くすアンドロイドの哀しさ萌え(?)」と「身勝手な人間ひどくね?」という話にとれる(これ一話でも笑えて泣ける素晴らしい話なんだけど)。
ところが、ここからの流れを踏んでマサキ・テックス編に突入すると、違った見え方が表れてくる。
カトランもテックスも、見た目は人間とかけ離れている。しかしアンドロイドとも心の交流がとれる事は、ここまで観てきた視聴者には分かりきっている。後はその心の交流をどう行うかの問題だ。
普通は言葉を使う。カトランは見た目が異様でも基本的な会話は交わす事ができた。「言葉を交わせば通じあえるね」というエピソードだ。
一方、テックスは会話を禁じられてしまった為、マサキとの交流に躓いた。にも関わらず、予備調査の一件を通じてマサキはテックスの葛藤を知った。これはもう「言葉がなくても通じあえるね」の世界だ。すげえ。
その人の抱えるなんらかの事情で、言葉に出せなくても/行動に移せなくても、だからといって何も感じていないわけじゃ無い。
自分以外の誰かが、言葉や行動には出さなくてもきっと自分の事を想ってくれているという確信。これをマサキは得たわけだ。そういう関係を、家族っていう。
それにしてもテックスの愛くるしさは異常だよね本当に…。ウチにも欲しい。CV:斎賀みつきさんで。
閑話休題。
哲学なんてよく分からないけれど、アンドロイドはそうも言ってはいられないか。
彼らの頭脳の元を作った技術者は、彼らに感情を与えた。それは多分、技術的に必要なことではなかったにも関わらずだ。人の傍に寄り添うアンドロイドが、人の傍で幸せを掴めるよう、人を愛し慈しむような感情を与えた。
しかし感情は悩み苦しみと無縁ではいられない。
与えた技術者の側が後悔と不安に苦しむように、与えられた側も疑念と自問に囚われる事だろう。そこに一人でいるのはきっと不幸だろう。
飛び出して、自分以外の誰かの話を、人間でもアンドロイドでもいいから聞いて見れば動き出す。その為に、優しいイヴの時間が待っている。
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